〜野球で歩んできた人生〜
私は小学生低学年の頃から、川原に行き、棒切れで石を打ったり、川に石を投げたり、野球のような形で、棒で柔らかいボールを打ち地面にベースみたいな、しるしを書き、その遊びの延長から、ソフトボールさらに、軟球の野球(中学まで)、それから高校で本格的に硬式の野球を始めました。
私の心に、人生の火を灯したのは、夏の高校野球です!
三沢高校対松山商業の試合をテレビで小学生の時に、たまたま目にします!死闘に次ぐ死闘で、負けた側の三沢高校のエース太田幸司投手に憧れ、俺も太田幸司になる!
その動機は、目に焼きついたあの光景をどうしても、自分に置き換えている自分があるのです!
それが数年後(6年後)には本当に実現しているのです!昭和51年夏の甲子園大会に、当時柳川商業のエースとして出場、そしてその続きは、プロ野球・近鉄バファローズに何とドラフト一位で指名され、憧れていたあの投手、そう!太田幸司投手と同じ球団に入団し、それも私の背番号は16番、太田さんは18番で、共に球団を代表する投手に与えられる背番号でした!!! (契約金2500万円・年俸240万円)
それから憧れの続きは、入団して初めての自主トレの時に何と!あの太田投手と二人一組で手に手をとり、柔軟体操をしている自分が有るではないですか?
何だこれ?憧れが目の前に!!
俺はこれから、この人たちと競い合わなければならない立場に来たんだ!「よーし!次は太田さんを追い越してやる!」に変わる自分がいました。
そして入団4年目には8勝を上げ、6年目には若きエース久保、と言われるようになりました。そして21年間で、550試合登板と言う金字塔を打ち立てることになります。
通算成績(71勝62敗30セーブ)
思い描いた自分を追いかけて、プロ野球生活35年間(選手21年間・コーチ14年間)の歩みは、 夢ではなく、「思い描き、実現させること」、それこそが、自分のこれからの行き先に大きく反映されることだと思います。
私が、皆さんに伝えたいのは、「思い描く事」には様々な事が、「頭に浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ」それが無駄ではなく、物事に取り組む為に必要なアンテナになるのです! そのアンテナが大きくて広いほど、後々に、自分の達成したい事に、大きく役立つ事になるでしょう。
「思い描いてください・・・・自分を!」
久保 康生 |